ブラタモリ#256「東京・世田谷」の放映にちなみ、桜新町交番を要とするY字路や「旧・新町住宅地」「信託住宅発祥地」について、以下のURLで言及しました。
www.ariescom.jp
今回の桜新町の歴史ネタは、「集団就職の発祥地」としての桜新町です。
桜新町商店街マップに「桜新町は『集団就職の発祥地』」との記載
桜新町商店街マップの表3「商店街一言メモ」に、”集団就職 発祥の地”の見出し記事が掲載されていました。
高度成長期の1955年(昭和30年)、働き手不足だった桜新町では全国に先駆けて集団就職の受け入れを実施しました。
との記載があります。
朝日新聞 2011年7月2日夕刊に「集団就職の発祥地としての桜新町」の詳細が!
「集団就職」についてウェブ検索を駆使したところ、いまは消滅している朝日新聞社のサイトに、以下の過去記事が掲載されていることが判明。
ウェブアーカイブの以下のURLにて、その記事の内容が確認できます。
◆畑川剛毅 (2011年7月2日). “昭和史再訪 集団就職始まる 昭和30年3月 金の卵、上野駅に降り立った”. 朝日新聞・夕刊。 - ウェブアーカイブ
https://web.archive.org/web/20130512123045/http://doraku.asahi.com/earth/showashi/111122.html
2011年7月2日朝日新聞夕刊紙面より
今は「サザエさん通り」として知られる東京・世田谷の桜新町商店街は、集団就職の発祥地だ。
1954(昭和29)年秋、100軒ほどの個人商店はどこも人手不足だった。精肉店主の商店会長、菅沼元治さん(故人)は商店会が合同で求人するアイデアを新潟県の高田公共職業安定所(上越市)に持ち込んだ。何度も足を運び「郷里の人がまとまっていれば心強いはず」と強調。休日や給料を確約し、独立に備えて給料の4%を積み立てる退職金制度も設けた。
農村は復員や引き揚げで人があふれ、家を継ぐ長男以外は仕事にあぶれる「次男三男問題」が深刻だった。最初は不審がった高田職安も提案を受け入れ、翌年3月26日、夜行列車で中学を卒業したばかりの15人がやってきた。合同入店式に続き、1週間は電話の取り方、接客の仕方などを研修。最終日にバスで東京遊覧し、各店に散った。
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桜新町の試みが評判を呼び、労働省は2年後に全国に広げて本格化させた。商店街などの地域団体と同業種団体が求人の主体で、61年には533団体5万8千人の求人に約1万1千人が応じた。
故・菅沼元治さんといえば「肉は丸新」、そして、桜新町を地盤に世田谷区議・東京都議を長年務められたお方です。
このお方が、「集団就職」を牽引されていたことは、今回初めて知りました。
桜新町が発祥となったのは「集団就職」ではなくて「集団求職」
高度経済成長期、深刻化する都市部の働き手不足を解消するため「集団就職」が始まった。
地方の農村などから中学や高校を卒業したばかりの若者を運ぶ専用の集団就職列車が初めて運行されたのは、昭和29年。青森駅から上野駅に若者たちを送り届けた。中でも、賃金の安い中卒者は「金の卵」と呼ばれ、人気が高かった。
雇用主側が働き手を募る「集団求人」の先駆けとなったのは、東京都世田谷区の桜新町商店街の取り組みだ。新潟県高田市(現上越市)の職業安定所を通じて各店が合同で求人する手法で、30年、1期生を受け入れた。地域を挙げての入店式のほか、仕事の作法を教える「店員教室」も開催した。
桜新町の取り組みは全国に広がり、集団就職は拡大。歌手の井沢八郎が集団就職をテーマに、39年に発表した「あゝ上野駅」も大ヒットした。
その後、高校進学率の上昇などで、40年には高卒の就職者数が中卒を逆転。集団就職列車は50年が最後となった。
また、
以下の朝日新聞社サイト「論座アーカイブ」にも「(集団就職ではなく)「集団求人」の端緒となった桜新町について書かれています。
桜新町商店街20周年記念誌にも、昭和30年(1955年)当時の写真とともに、「集団就職の発祥地=桜新町」が紹介されています。
ウェブアーカイブ(Wayback Machine)の以下のURLから記念誌のPDFをDLいただけます。
https://web.archive.org/web/20160304060504/http://www.sakurashinmachi.net/y_kinensi.pdf