今回の「生き物にまつわる言葉を深掘り」のテーマは、「馬飼部(うまかいべ)」です。
古代日本で"「馬」を扱った氏族"である馬飼部について深掘りリサーチしたところ、現在の地名や名字にも影響が大きいことがわかりました。
その結果を以下の目次に沿ってまとめでレポートとしました。
生き物にまつわる部民に関する過去記事は以下のようなものがあります。併せてご確認ください。
- 馬飼部とは何か?
- 馬飼部の時代と職務
- 馬寮と馬飼部との関係
- 馬飼部のエリアと規模
- 馬飼部の地名や名字への影響
- 馬飼部が飼育していた馬の種
- 鳥養部、猪養部、犬養部と馬飼部の「養」と「飼」の違いについて
- 牛の飼育と部人制
- まとめ
馬飼部とは何か?
馬飼部(うまかいべ)とは、古代日本の大和朝廷に仕え、馬の飼育や調教を主な仕事とした部民(べみん)のことです。
部民とは、特定の職務を世襲として担う集団を指し、馬飼部はその中でも重要な役割を担っていました。
馬飼部の時代と職務
時代:
古代ヤマト王権(大和朝廷)時代から、律令制下においてもその機能は継承され、左右馬寮(めりょう)に属して馬の管理を行っていました。
馬寮(めりょう/うまのつかさ)は、律令制における官司の一つ。唐名では典厩(てんきゅう)。
左馬寮(さめりょう/さまりょう)と右馬寮(うめりょう/うまりょう)に分かれていた
概要
諸国の牧(御牧・官牧)から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教にあたった官職である。
諸国から集められた馬は馬寮直轄の厩舎や牧(寮牧・近都牧)で飼養したり、畿内及び周辺諸国に命じて飼養させた。また、後には勅旨牧の経営も監督した。そして軍事や儀式において必要なときに牽進させて必要部署に供給した。
馬寮の官人は武官とされて帯剣を許された。
後には検非違使を補助して都の治安維持の業務にあたる事もあった。
後に頭以下の官職に武士が任官されるのもこうした警察的な要素があったからとも考えられる。
伴部として実際に馬の飼育にあたる馬部(めぶ)がおり、飼育を担当する飼戸(しこ)を傘下においてこれを統率した。
馬飼部の職務:
馬の飼育、調教、繁殖、貢納などが主な仕事でした。
馬は、当時の交通手段として欠かせないものであり、軍事力としても重要であったため、馬飼部の仕事は非常に重要な役割を担っていました。
馬寮と馬飼部との関係
馬寮(めりょう)と馬飼部(うまかいべ)は、古代日本の朝廷において、馬の管理に関わる重要な役割を担っていた組織です。
両者の関係は密接で、それぞれ異なる役割分担を果たしていました。
馬寮とは?
概要:
馬寮は、朝廷における馬の飼育、調教、および管理を司る官庁です。
律令制下では左右に分かれ、それぞれ独立した組織として機能していました。
馬寮の役割:
- 馬の飼育と繁殖
- 馬具の管理
- 馬に関する儀式の執行
- 馬の供出
馬寮の構成:
- 官人: 馬寮には、馬の専門知識を持つ官人が多数在籍していました。
彼らは、馬の飼育や調教に関する技術だけでなく、行政的な能力も求められました。 - 馬部: 実際に馬の世話をしていたのが馬部(めぶ)です。馬飼部はこの馬部に含まれていたと考えられています。
馬飼部とは?
概要:
馬飼部は、馬の飼育を主な仕事とする部民の集団です。馬寮に属し、馬部の構成員として働いていました。
役割:
- 馬の日常的な世話
- 馬の調教
- 馬の繁殖
- 馬の疾病の治療
両者の関係
- 上位と下位の関係: 馬寮は官庁であり、馬飼部は部民という立場から、馬寮が上位、馬飼部が下位の関係にありました。
- 密接な連携: 馬寮は、馬に関する政策を立案し、馬部の活動を統括する役割を担っていました。一方、馬飼部は、馬寮の指示のもと、実際に馬の飼育や調教を行うという役割を担っていました。
つまり、両者は密接に連携しながら、朝廷の馬の管理を行っていたのです。
馬寮と馬飼部の関係を簡単にまとめると、以下のようになります。
- 馬寮: 馬に関する政策を立案し、馬部の活動を統括する官庁。
- 馬飼部: 馬寮に属し、実際に馬の飼育や調教を行う部民の集団。
馬寮は、いわば馬に関する総合的な管理機関であり、馬飼部は、その下で馬の飼育という専門的な仕事に従事していたと言えるでしょう。
馬飼部のエリアと規模
エリア:
主に大和国、河内国を中心に分布していました。
これらの地域には、河内馬飼首(かわちうまかひのおびと)など、馬飼部を率いる首長がおり、組織的な活動を行っていたと考えられています。
主な分布地域を現在の地名で言うと、以下の地域に分布していたとされています。
馬飼部が多く分布していた全国の地域について、現在の地名で示します。
馬飼部が多く分布していた地域
- 河内国(現在の大阪府)例: 東大阪市、柏原市、八尾市など
- 大和国(現在の奈良県)例: 奈良市、生駒市など
- 摂津国(現在の大阪府北部)例: 吹田市、豊中市、池田市など
- 和泉国(現在の大阪府南部)例: 和泉市、高石市など
- 播磨国(現在の兵庫県)例: 姫路市、加古川市など
- 美作国(現在の岡山県)例: 美作市、津山市など
- 備前国(現在の岡山県)例: 岡山市、赤磐市など
- 信濃国(現在の長野県)例: 松本市、長野市など
馬飼部は、主に近畿地方を中心に分布していましたが、その他の地域でも存在していました。特に、大阪府、奈良県、兵庫県、岡山県などがその代表的な地域です。これらの地域は、古代日本において馬の飼育や管理が盛んに行われていた場所です。
規模:
馬飼部は、当時の社会において大きな集団を形成していました。
馬の飼育には広大な土地と人手が必要であったため、多くの部民が馬飼部に属していたと考えられます。
馬飼部の地名や名字への影響
馬飼部という名称は、そのまま地名や名字に残り、現在でも「馬場」「馬込」「馬淵」といった地名や、「馬場」「馬淵」といった苗字として見ることができます。
これらの地名は、かつて馬飼部が居住していた地域や、馬の飼育が行われていた場所を示していると考えられます。
地名
- 馬場: 「馬場」という地名は、馬を飼育していた場所を示すことが多く、関東地方や中部地方に存在します。
- 馬飼町: 一部の地域には「馬飼」という名前の町が存在し、馬飼部の名残を感じさせます。
名字
- 馬場: 「馬場」という名字は、馬飼部に由来する可能性があります。
- 馬飼: 「馬飼」という名字も存在し、直接的に馬飼部に関連していると考えられます。
これらの地名や名字は、古代の馬飼部の活動を反映しており、歴史的な背景を持っています。
馬飼部が飼育していた馬の種
古代日本で飼育されていた馬の品種については、明確な記録が残されていませんが、主に蒙古系馬が導入されたと考えられています。
蒙古系馬は、体格が強く、寒さに強いという特徴を持っていたため、日本の気候風土に適していたと考えられています。
蒙古系馬と在来馬の関係
蒙古系馬が日本の馬に与えた影響
日本の在来馬のルーツは、多くが蒙古系馬に遡ります。
古墳時代に朝鮮半島を経由して日本に導入された蒙古系馬は、その丈夫さと寒さに強い体質から、日本の気候風土に適応し、広く繁殖しました。
具体的な影響としては、以下の点が挙げられます。
- 体格: 日本の在来馬は、蒙古系馬の影響を受け、比較的小柄で丈夫な体格をしています。これは、日本の山岳地帯や狭い土地での作業に適していたと考えられます。
- 性質: 蒙古系馬は、忍耐強く、学習能力が高いという特徴を持っていました。この特徴は、日本の在来馬にも受け継がれ、農耕馬や駄馬として活躍する上で大きな利点となりました。
- 遺伝子: 日本の在来馬の遺伝子には、蒙古系馬の遺伝子が強く残っています。現代の遺伝子解析により、このことが明らかになっています。
蒙古系馬と在来馬の違い
蒙古系馬と日本の在来馬は、共通点が多い一方で、いくつかの違いも存在します。
- 環境への適応: 蒙古系馬は、広大な草原での生活に適応していたのに対し、日本の在来馬は、日本の多様な地形や気候に適応して進化してきました。
- 品種の多様性: 日本の在来馬は、地域によって様々な品種に分化しました。これは、それぞれの地域の環境や人々の利用方法によって、馬が異なる方向に進化したためと考えられます。
日本の主要な在来馬とその特徴
日本の代表的な在来馬には、木曽馬、北海道和種、対州馬などが挙げられます。
これらの馬は、いずれも蒙古系馬を起源としつつ、それぞれの地域の特徴を反映した独自の品種となっています。
- 木曽馬: 中部地方の木曽谷で飼育されてきた馬。急峻な山岳地帯での作業に適した強靭な体格と、従順な性格が特徴です。
- 北海道和種: 北海道で飼育されてきた馬。寒さに強く、スタミナがあり、農耕や運搬に利用されてきました。
- 対州馬: 対馬で飼育されてきた馬。小柄で強靭、そして気性が穏やかという特徴を持ち、島内の運搬や乗用などに利用されてきました。
馬飼部が扱っていたとされる蒙古系馬は、日本の馬の歴史において非常に重要な役割を果たし、現在の日本の在来馬の基礎を築きました。
日本の気候風土や人々の生活様式に合わせて進化してきた日本の在来馬は、その多様性と優れた能力が魅力です。
鳥養部、猪養部、犬養部と馬飼部の「養」と「飼」の違いについて
部民制における「養」と「飼」の使い分けについての考察は興味深いです。以下にその理由を考えてみます。
養と飼の使い分けの背景
育成と管理の違い:
- 養: 鳥、猪、犬のように、主に育成や繁殖を目的とした部門には「養」が使われています。これらの動物は、特定の用途(例えば、狩猟や家畜化)に向けて育てられることが多いため、成長や繁殖が重視されます。
- 飼: 馬に関しては、主に運搬や戦闘などの実用的な目的で飼われていました。馬は日常的に飼いならされ、管理されることが多いため、「飼」が使われています。
文化的背景:
馬は古代から重要な役割を果たしており、その扱い方が他の動物とは異なる文化的背景があります。特に、馬は戦争や移動手段としての重要性が高く、単に育てるだけでなく、日常的な管理が求められました。
言語の発展:
時代や地域によって、動物に対する呼称や扱いが異なることがあります。歴史的な背景や社会のニーズに応じて、言葉が変化していった結果とも考えられます。
- 鳥養部、猪養部、犬養部: 動物の育成や繁殖を重視。
- 馬飼部: 馬の管理や実用性に重きを置いているため「飼」が使用。
このように、部門名の違いは、動物の扱いや文化的な背景に起因していると考えられます。
上記はあくまで推測であり、なぜ「養」と「飼」を使い分けたのか、その理由はまだ解明されていません。今後、さらなる研究が進められることで、より明確な答えが得られるかもしれません。
牛の飼育と部人制
牛に関しても、馬飼部のような部人制が存在していた可能性は十分に考えられます。
牛は、農耕や運搬に利用される重要な家畜であり、馬と同様に専門の集団が飼育に当たっていたと考えられます。しかし、馬ほど明確な記録が残されておらず、詳細は不明な点が多いです。
まとめ
馬飼部は、古代日本の社会において重要な役割を担っていた集団であり、その活動は日本の歴史や文化に深く影響を与えました。
馬飼部に関する研究は、古代日本の社会構造や生産体制を解明する上で重要な手がかりとなります。
興味深いですよ!「馬飼部」。