今回の「生き物にまつわる言葉を深掘り」のテーマは、「鯨と海と人形町」です。
アリエスコム ARIEScom 事業に、継続的に発注いただいているクライアントが2社が日本橋蛎殻町にあるもので、その隣町の日本橋人形町にはよく伺います。
「水天宮」「甘酒横丁」などの”名所”はもちろんのこと、レトロな雰囲気が漂う路地裏が魅力的な街です。
人形町には「鯨と海と人形町」といったタイトルの碑・モニュメントがあります。
この「鯨と海と人形町」や「鯨ひげ」について深掘りリサーチした結果を以下の目次に沿ってまとめてレポートとしました。
鯨と海と人形町:意外な歴史の物語
「鯨と海と人形町」の碑は、一見すると人形町のイメージと結びつかないようなユニークなモニュメントです。
この碑には、人形町の意外な歴史が隠されています。
「鯨と海と人形町」は、東京都中央区日本橋人形町にある碑の名称です。
この碑は、人形町がかつて芝居小屋や歌舞伎、浄瑠璃人形芝居などの拠点として賑わっていた歴史を背景に、人形に使われた鯨ひげの主(=ヒゲクジラ類ナガスクジラ科?)をモチーフにして作られました。
なぜ「鯨」「ヒゲクジラ類ナガスクジラ科?」がモチーフなのか?
人形浄瑠璃は、太夫が語り、三味線が音楽を担当し、人形遣いが人形を操る伝統芸能です。
この人形の目や口を動かすために、鯨のひげが使われていました。
鯨のひげは、しなやかで弾力性があり、人形の表情を繊細に表現するのに最適な素材だったのです。
「鯨と海と人形町」の碑文には、以下のように記されています。
碑文
鯨と海と人形町
作 松橋 博
中田浩嗣
あやつり人形のバネは今でも鯨ヒゲが使われています。
特に人形浄瑠璃から伝承された文楽人形の命とも言える精妙な首の動きは、弾力に富んだ鯨ヒゲでなければ出せないそうです。
ここ人形町一帯は寛永十年(一六三三)頃から、江戸歌舞伎の「市村座」「中村座」、人形浄瑠璃の糸あやつり人形結城座、手あやつり人形の薩摩座などの小屋が集り、江戸町民の芝居見物が盛んでした。
そして、それらの人形を作る人形師や雛人形、手遊物などを商う店がたくさん立ち並んでいたところから、昭和八年、正式に人形町という地名になりました。
(2002年7月)
「弾力にとんだ鯨ひげ」とは?
文楽人形の命とも言える精妙な首の動きを可能にしている「鯨ひげ」とは、いったいどのようなものなのでしょう?Wikipediaを引用します。
クジラヒゲ(鯨鬚、鯨ひげ、くじらひげ、クジラひげ、英: baleen])は、ヒゲクジラ類が濾過摂食のために発達させた摂食器官。
ヒゲクジラ類の口蓋から垂下し、餌生物を海水から濾し取る役割を持つ。
濾過摂食を進化させた脊椎動物は他の系統にも存在するが、それらの摂食器官と比べても非常に独特な器官となっている。
・・・
ヒゲクジラ類は最初からクジラヒゲを備えていたわけではない。
クジラヒゲは明らかに大量濾過摂食に対する適応であるので、クジラヒゲの進化はヒゲクジラ類の摂食様式の変化に大きく関係している。
初期のヒゲクジラ類は当然ながらクジラヒゲではなく歯を持っていた。
【ザトウクジラのクジラヒゲ】
【ザトウクジラ口蓋。ピンク色の口蓋中央粘膜部の左右に並ぶ繊維房がクジラヒゲ列】
人間による利用
クジラヒゲはプラスチック素材が無かった時代、その弾力性や柔軟性などから様々な用途に用いられてきた。また、熱を加えて変形させられる点、繊維に沿って細く裂くことができる点でも有効に活用されている。
その弾力を生かして、乗馬鞭、傘の骨、下着のコルセット、ファージンゲールやパニエなどの骨組みに、加工の容易さからペーパーナイフ、スクリムショー(scrimshaw:船員による刻画や彫刻)などに利用された。
・・・
文楽をはじめとして現代まで続く人形浄瑠璃の分野でも、クジラヒゲ素材は重要な位置を占める。
かしらと呼ばれるこれらの人形の頭部には、視線移動・眉の上下・瞼の開閉・口の開閉・ガブと呼ばれる異形への変化、などが可能な仕組みを内包しているものがあり、その機構を制御するためにクジラヒゲから削りだした薄い板バネと、場合によっては制御索としてのクジラヒゲ繊維が用いられる。
プラスチックや金属のバネと比較しても、動きの滑らかさや加工性の良さなどからセミクジラのものが最良とされる。
【セミクジラ型。長く非常に細かい(ミナミセミクジラ)】
近年ではセミクジラのヒゲを新規入手することが非常に難しいため他のクジラのヒゲで代用する例もあるが、国立文楽劇場では現在300以上保持しているかしらのために捕鯨船乗組員から寄贈されたヒゲを「今後数十年分」ストックすることで対処している。
「鯨と海と人形町」の碑が建てられた意味
「鯨と海と人形町」の碑は、人形町がかつて持っていた文化的な賑わい、そして鯨のひげという独特な素材とのつながりを後世に伝えるために建てられました。
人形町を歩く人々に、この地域の豊かな歴史と文化を思い出させ、街の魅力を再発見してもらうきっかけとなっています。
人形町には、かつて多くの人形遣いや三味線や人形浄瑠璃の道具を作る職人が住んでおり、鯨のヒゲは彼らの大切な材料だったのです。
具体的な情報
- 場所: 東京都中央区日本橋人形町1-6
- 特徴: 鯨を模したオブジェが特徴的
- 歴史: 人形町がかつて芝居小屋街であったことを象徴
- その他: 人形町を訪れる際には、ぜひ立ち寄ってみたいスポットの一つ
人形町はかつて海に面していた?
今ではすっかり内陸の町となっている人形町ですが、江戸時代には隅田川に面した港町として栄えていました。
たくさんの船が行き交い、活気に満ちた場所だったのです。
- 人形町と海の繋がり: 江戸時代、人形町は日本橋川を介して海と繋がっていました。
- 鯨油の問屋街: 人形町には鯨油を扱う問屋が多く集まり、鯨油は照明や機械の潤滑油などとして利用されていました。
- 鯨肉料理: 鯨肉は江戸時代の人々にとって貴重なタンパク源であり、人形町でも鯨肉料理が食べられていました。
- あやつり楽人形のバネ: 人形浄瑠璃の人形のバネに鯨ヒゲが使われていたという側面も、人形町と鯨の繋がりを象徴する要素の一つです。
このように、人形町は鯨と深く関わりのある街であり、「鯨と海と人形町」というテーマは、その歴史的な背景を総合的に表現していると言えるでしょう。
人形町の歴史に関するエピソード
- 芝居小屋の街: 人形町は、江戸時代から明治時代にかけて、多くの芝居小屋が立ち並ぶ演劇の街として賑わっていました。歌舞伎や人形浄瑠璃が上演され、文化の中心地として発展しました。
- 問屋街: 江戸時代には、米問屋や呉服問屋など、様々な問屋が軒を連ね、商業の中心地としても栄えていました。
- 下町情緒: 昭和の時代には、庶民的な暮らしが営まれ、下町情緒あふれる街として親しまれていました。
- 食の街: 現在では、様々な種類の飲食店が立ち並び、食の街としても知られています。特に天ぷらは有名で、多くの老舗天ぷら店があります。
まとめ
「鯨と海と人形町」の碑は、人形町の歴史がいかに多面的で興味深いものであるかを示す象徴的な存在と言えるでしょう。
かつての港町としての面影、人形浄瑠璃との深い関わり、そして現代の食の街としての魅力など、人形町は様々な顔を持つ街なのです。
もし機会があれば、ぜひ一度人形町を訪れて、この碑を見に行ってみてください。 街を散策しながら、歴史のロマンを感じてみませんか?